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政府の「骨太方針」で日本はますます細る

世論調査によれば、五輪に反対・延期の意見を表明しているが、世論など見向きもせず、政府は五輪を開催するという。しかも観客を入れてだ。専門家が、無観客が望ましいと提言しても政府は耳を貸さない。専門家も東京都の再拡大を危惧しているが、国内だけではなく、海外の動向も考慮して提言すべきだ。海外でも感染者数と死亡が拡大している国があり、世界の死亡数は増加に転じている。世界中から選手や関係者が来日し、行動することになれば、感染は確実に増加するだろう。国内では依然、制限された生活を強いられていながら、感染リスクを高める政策を取る。国民と専門家の五輪は開催すべきでない考えに、政府は真正面から答えることなく突き進む。第2次大戦を始め、1980年代後半のバブル経済や今もなお泥沼化している福島原発など意思決定の遅れが、致命傷になったことを忘れてしまったかのようだ。何度、失敗しても失敗を繰り返す。日本は懲りない国なのである。

議会制民主主義というが、安部政権以降を顧みても、民主主義を踏み躙る数々の法案を成立させたではないか。民主主義を機能させる三権分立さえ意に返さない。菅首相は、その安部政権を踏襲しているのだから民意など眼中にないのだろう。中国を独裁国家と批判するけれども、日本の政治も中国と五十歩百歩といったところか。

6月17日の菅首相の記者会見は酷い、質問されてもその質問にまともに答えようとしない。言語能力が欠如しているといっても言い過ぎではない。言葉が通じなければ民主政治は成立しないが、日本はそういう状況下にあるのだ。さらに、統制された記者会見であり、これが民主主義国家の記者会見なのだろうか。自由な発言と時間が確保されなければ記者会見とはいえない。長時間の質疑応答に耐えられないようでは、首相は務まらないのだ。民主主義を標榜しているが、結局、多数の力を背景に大事な問題を封印してしまう。中国共産党の独裁とそれほどの違いはない。自民党・公明党による独裁政治なのである。

6月18日、政府は「経済財政運営と改革の基本方針2021」(骨太方針2021)を閣議決定した。「グリーン、デジタル、活力ある地方創り、少子化対策」によって、日本の未来を拓くという。「活力ある地方創り」や「少子化対策」はこれまで何度も言われてきたが、若者の地方から東京への流入は一向に止む気配はない。地方には若者をわくわくさせるところがないのだ。なにかその地方独特のものつくりや産業があり、それによって潤い、生活が豊かにならなければ、わくわくさせる場を作ることはできず、人は集まってこない。だが、地方独自のものつくりを意図的に始めようと思ってもできることではない。時代が変わることによって、おのずと地方の「あるもの」が注目され、それが利益を生み出していけば、自然に人は集まってくる。手っ取り早く企業誘致をしても、工業製品の寿命は短く、廃れやすく、ラストベルトになりかねない。地に足のついたものつくりを始めることは容易ではない。

「少子化対策」もこれまでの焼き直しだ。育児休業や非正規雇用などが結婚・出産の阻害要因になっていると指摘するが、これらを抜本的に変える政策は打ち出されていない。尻に火が付いても企業寄りの差しさわりのない方針にとどまる。これが骨太といえるだろうか。

世界的に猫も杓子も地球温暖化の阻止、カーボンニュートラルの大合唱だが、温暖化がそれほど人間の生活を脅かしているのだろうか。そうであるならば、即刻、化石燃料の使用を止め、森林の伐採から手を引かなければならない。今のような先進国の化石燃料を湯水のように消費する生活を改める必要がある。夏も冬も快適に過ごせるような化石燃料の使用にも制限を設けるべきだろう。プラスチック製品などの製造販売はご法度だ。重化学工業など論外だということになる。金持ちの資本主義国にそのようなことができるだろうか。

過去の文明が栄えたときは今よりも暖かかったのではないだろうか。恐竜の時代はもとより、ずっと下って縄文時代、ローマ帝国、平安時代などいずれも温暖な気候であった。温暖だから農業生産力は高まり、生活は豊かになり、文明は栄えたのだ。寒冷化が深刻になれば、農業はできなくなり、人間は生きていけず、文明は滅ぶことになる。

化石燃料を燃やすことによってでるCO2は海面からのCO2に比べれば僅かである。CO2の濃度が増すから気温が上昇するのではなく、その逆なのだ。CO2を悪玉にすることによって、電力を始め自動車なども化石燃料を直接には使用しない方法が採られつつあるが、それでは電気自動車にすれば、CO2が減少するかといえば、そうとは言えまい。直接的には化石燃料は使用しないが、間接的には膨大な化石燃料を使って車と電気を作ることになる。電気は太陽光や風力で作れるというが、太陽光発電機器や風力発電の生産には莫大な化石燃料を要する。太陽光発電で生み出すエネルギーが太陽光発電を生産するために直接・間接に必要なエネルギーを上回るならば、太陽光発電を採用できるが、現実はそうはなっていない。風力発電しかりである。しかも、こうした自然に依存する発電は不安定であり、不安定性を補うために余分な設備を必要とすることも化石燃料の消費に繋がる。

原発は、CO2は出さないが、放射能と膨大な核廃物を出す。核廃物だけを取り上げても原発がとんでもない代物だということがわかる。さらにエネルギー収支の観点からも産出よりも投入が多く、バランスはマイナスなのである。原発を作るには鉄やセメントなど粗原料が必要だが、核燃料を作るにも大量の化石燃料を消費する。原発を作り、稼働させるに直接・間接に必要な化石燃料は計り知れない。原発は化石燃料の塊なのである。しかも発電量の三分の二は海や川に捨てられており、海水を温めているのだ。

地球温暖化阻止を名目に新技術の開発に躍起になっているが、そうした新技術は化石燃料なくしては生産できないという矛盾を抱えている。また、新技術そのものが化石燃料を従来以上に使用することもあり得る。生産過程の迂回度が増せば増すほどエネルギー消費量は増大するからである。

菅首相の肝煎りである「デジタル」はどうだろうか。パソコンで文章を書き、ホームページで発信できる、たいていのものはネットで買える、家から図書館に貸出予約を入れる、各国の経済データも即入手可能であり、為替や株式取引も簡単にできるなどデジタル化の社会への貢献は大きい。半面、キーボードやスクロールの操作、長時間のデスクワークなどデジタル化による身体への悪影響、さらに手作業の劣化など本来の身体能力が失われつつあるように思う。IT機器や機械まかせが進行していくことが、今の社会の行く末なのだが、結局のところ、人間の持っているさまざまな能力が、次々に喪失してしまうことになるのではないか。デジタルを進めたいのであれば、それ以上に非デジタルを推進しなければ、取り返しがつかない身体能力の低下に陥りかねない。

経済学の世界においても、これだけふんだんに書籍やデータが利用できるにもかかわらず、マルクスやケインズ級の学者が現れないことは、デジタルでは飛びぬけた人材を輩出することは難しいということではないか。安易にものを入手できるだけでは、身につかない。苦労して書き写すことも大事なのである。ネットや画面上での教育ではなく、人と人との繋がりの中でこそ、実りある成果が得られるのだと思う。

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