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管理された退却

 

ロバート・スキデルスキーの一文、「ブームは幻覚であった」が目に止まる。「世界経済は危機に瀕している。私たちがいま望みうる最良のものは、グローバル化の荒々しい土地からの管理された退却である。オルタナティブはユーロの崩壊、保護主義、そして戦争でさえある」と刺激的に語り始めている。
 
危機にある世界経済、その先行きの考えられる二つのシナリオのうち分解のそれのほうを人は予感しているだろう。30年代の傷跡をもっと激しいかたちで通過していくことになるのか。
 
経済の考え方としては、要するに世界経済がケインズの貯蓄のパラドックスに逢着しているということだろうが、現在の経済の姿をわかりやすく整理してくれているような印象ももつ。そこで、ざっと、高名なケインズ研究家でもあるスキデルスキーの議論を、簡単にじぶんなりにメモしておこうと考えた。
 
以下
からのメモ。
 
・・・
2008年秋の崩壊以来、世界経済は3つのフェーズを経験してきた。一年以上の急速な衰退、2009年から2010年の回復、しかしそれは全快とはならなかった。そして次に、これまでのところ非常に浅いものだが、本年の下降。
 
過去4年に生じた損害は巨大であった。世界経済は2007年から2009年の間に6%収縮し、4%回復した。2007年の成長率が継続していたならば、そうであったであろうより10%貧しく、そして苦痛はまだ終わってはいない。いま我々は第二の金融危機の初期にいる。”二番底”を回避するにはすでに遅すぎるかもしれないが、三番底を避けるのはまだできるかもしれない。これについては、持続的な回復を確保するのに必要とされるものについてしっかりした知的分析が必要とされる。そして集合的な政治的分析がそれを実行するであろう。
 
危機の背景
 
経済学は混乱状態にある。支配的なシカゴ学派のパラダイムが打ち砕かれることで、その合理的期待形成論は仮説上、ちょうどいま我々が経験したような種類の崩壊を問題外とし、フリードリヒ・フォン・ハイエクとジョン・メイナード・ケインズという二人の巨匠が30年代のバトルを更新するために死から蘇ってきた。・・・我々はこれに、”貨幣供給過剰”、”救済過剰”のラベルを貼りつけることができる。
 
スランプにあるハイエク派の議論は、公衆がその当期の所得から貯蓄したいと望む以上のマネーを商業銀行がビジネスに貸し付けるのを可能にするような緩い金融政策を採用するというものである。したがって、投資の全体の一部分、ハイエクはそれを”悪い投資”と呼んだが、それは純粋な貯蓄ではなく、信用創造によって融資された。これは消費ブームを促進した不動産及び金融部門のバブルに導いた。(後で)マネーの蛇口が閉められたとき、バブルは破裂し、米経済はスランプに陥った。このスランプは単に不健全な投資ー”資本消費”の清算である。
 
対照的に、ケインズ学派にとって問題は、不十分な貯蓄ではなく、不十分な投資であった。貯蓄は所得の安定した一部分ではあるが、投資は不確実性に支配される。景気後退に入るのは、ケインズの経済学が示唆するのは、いくつかの理由で、なされた貯蓄量に関連して利潤期待が低落するときである。ビジネスは投資よりも流動性を選好しはじめる。これはちょうど金利が下がって欲しいときに、金利や借入れコストを押し上げる。貯蓄と投資は金利の低下によってではなく、所得の低下によって均衡へと戻される。2008年から2009年の景気後退は債務過多によるのではなく、投資の崩壊によって引き起こされた。債務過多は原因ではなく結果であった。
 
いずれの説明にも国際的次元がある。ハイエク派の物語は、世界の指導的準備通貨としてのドルの役割が可能とする連邦準備銀行によるドルの過剰発行から始まる。米国人はこれによって分不相応の生活ができ、生産した以上に費やすことができる。
 
ケインズ派の物語は中国の過剰貯蓄で始まる。中国人は・・・彼らの経済が吸収しうる以上の、所得のはるかに高い割合を貯蓄する。それは米国が世界の”最後の消費者”になることを可能にした中国の中央銀行の米国債の購入による中国の過剰な貯蓄の米経済へのリサイクルであった。米国の”貨幣の供給過剰”は、基本的には中国の”貯蓄過剰”の原因ではなく結果であった。
 
二つの物語は市場経済がどのように作用するかについての対照的な推論から出てくる。前者は自己調整的機構としてそれを見る。そこでは”見えざる手”が、金融不安がない状態で、個人の利己的な活動を社会的最適へとスムースに切り替える。ケインズ学派は市場システムの社会的価値を受け入れはするが、減らすことができない不確実性のあるなか、それが最適な自己調整機構であることを否定する。”見えざる”手は社会的最適ではなく、”不完全雇用”均衡へと経済を導く。そのために、潜在的資源の完全活用を確保するために政府の介入が必要である。
 
冷静にみて、景気後退のそれぞれの説明に真実の要素がある。我々は米国の放蕩、中国の倹約のあいだでどちらかを選ぶ必要はない。我々の政策は、繁栄のもつれを解くために両方の貢献を処理しなければならない。
 
緊縮策対刺激策
 
危機の起源に関していま書いた相違は、緊縮策と刺激策の間の現在の論争を補強する。9月15日のフィナンシャルタイムズの中で、メグナド・デサイは「長期不況はケインズ派の現象ではなくハイエク派のそれである。必要なのは支出ではなく、レバレッジの解消である」と書いている。たとえこれが短期的には総需要を縮小しても、民間も公的部門も貯蓄を増加させる必要がある。資産にそれ固有の価値を見つけさせることが現実的な価格で実需をもたらし、間違った決定をした人々を罰するであろう。
 
短期にはいっそうの苦痛があることだろう。しかし刺激策というケインズ派の代替策は調整を遅らせ、納税者に不公平に、あまりにリスクを取りすぎた人々を救済する代償を支払わせる。ブームは幻想であった。景気低迷は間違った投資を清算する機会である。
 
これに対して、ケインズ学派は二つの反論を持ち出す。一つに、彼らは崩壊以前に米経済に”あまりに多く”の支出が存在したことを否定する。全般的な過熱のサインは存在しなかった。インフレ率は低かったし、労働力の不足はなかった。彼らがハイエク派に与えることは、安価なマネーが間違った方向の、あるいは投機的な投資を大規模に可能にしたということであり、富に駆動された消費ブームに油を注いだのである。しかしこのことは、厳密な意味で過剰な投資が存在したと言うことと同じではない。いっそうの投資がゼロ収益率を生み出したという、あるいは一般にあまりに多くの消費があったという意味でである。貧困ライン以下で生活している4600万人の米国人の財貨及びサービスの需要が飽和のポイントに達したと信じることは不合理である。バブル経済で建てられた住宅や建築設備はまだそこにある。それらは”手頃”になるために、低賃金層の所得の削減ではなく上昇を要求している。
 
しかしより根本的に、ケインズ学派はたとえハイエク派の診断が正しくても、緊縮策という対策は誤りであると主張する。それは、中世の治療法、病人から血液の腐敗を取り除くために出血させる、しばしば患者の死に結びついた・・・治療であると彼らは言う。1930年代に、ライオネル・ロビンズは、ケインズの刺激策への反対を撤回して、こう書いた。
 
”(緊縮策による)引き続く結果を扱うために、行き過ぎた金融緩和及び誤った実物投資が修正されたという元々の診断、それは確実に解決された問題ではないが、そう仮定することは、その元々の問題が過熱して氷の池に落ちた人々に毛布を否定し酔っ払うように刺激するのと同じように不適切であった。”
 
(これをドイツの財務相、ヴォルフガンク・ショイブレと比較せよ。「アルコールを与えることでアル中患者を直すことはできない。」)ポイントはこうである。政府と民間部門の両方がその貯蓄を同時に増加させようとしていれば、間違った投資をただ清算するだけではない。同様に、誰もが貯蓄するにはあまりに貧困であるほどまでに、国民所得を縮小することで、経済を台無しにするのである。
 
これが私が英国で、民間企業が眠り込んでいるとき、有効需要の不足の故に、国家が瀕死の投資マシンを活発にするための刺激策を採らねばならないと主張してきた理由である。
 
真実は、オールラウンドな”切り詰め”政策が債務の問題を増加させるということである。債券市場は、成長政策がない状態では、一口の債務は別の債務の後では”維持不可能”になることを正確に分析した。国民所得が成長すれば、国債及び民間機関の債務は双方とも、国民所得の部分として自動的に縮み、国民所得が縮めば、反対に増大するであろう。債務消減ではなく成長が今日の経済政策の主要な目標であるべきである。あまりにも多くの債権回収業者がいるところでは、彼らは結局、零落する。今日のユーロ圏はこの真実の恐ろしい目撃者である。
 
緊縮策が優勢であることで、世界の景気回復は次第になくなっている。欧州は、銀行破綻から公的債務の爆発、銀行破綻の第2ラウンドへとフィードバックループの中にあり、危機に瀕している。米国は、財政政策は麻痺し、市場が日本スタイルの停滞を予測することで、ほとんど良好な状態とはいえない。
 
ラテンアメリカや中東、それにロシアはコモディティ・ブームから利益を得ている。しかし彼らの主要な市場のうち、米国と欧州はほとんど成長していない。また、北京が不動産インフレのバブルを抑制しようとしており、またその輸出主導型の成長が米国や欧州における需要の持続的な増加に依存しているので、中国は減速している。中国商品に対する貪欲な欲求が減速すれば、ラテンアメリカや中東、ロシアの成長は音をたてて停止するであろう。そうして次には、中国製品へのそれらからの需要を制限することであろう。したがって、不運がそれぞれの上でフィード・バックするので、苦痛の円環は広くなる。
 
明らかな事実は、世界にはあまりにも小さな総需要しかないということである。また、追求されているあらゆる政策の正味の効果はそれをさらに縮小するということである。そうなると、将来に何がもたらされるのであろうか。
 
我々は、1930年代に何が起こったかを知っている。世界経済は崩壊した。一般通念は、これが今日いかなる場合にも不可能であるというものである。決まり文句は経済統合が不可逆であるというものである。情報とコミュニケーションにおける革命は抗いがたく世界を「地球村」に変えている。しかしながら、この良性の予想は、大きな危機や崩壊の可能性を無視している。人々は1914年にも正確に同じことを言っていた。歴史上、グローバル化は波のようにやって来た。経済生活は国家の支配権の相対的に安全な避難場所へ退却するので、危機とカタストロフィのインパクトのもとで後退する。
 
我々はグローバル化の最後の位相に到着している。そこでは、投機バブルによって汲み上げられたリサイクルのメカニズムによって、変わらずに誤った価格がつけられた通貨の問題を扱う。しかし、何がそれに続くのか。二つの対立する仮説がある。それは分解か調整かのいずれか一方といえるかもしれない。
 
最初の仮説は、我々がグローバルに問題の解決に失敗し、世界経済の破片化が始まるだろうということである。現在、国内需要は、極度に輸出主導型成長に依存する国々、また経常収支の赤字を削減しようとしている諸国によって抑制されている。これが示していることは、さまざまな理由から、グローバルな各当局が同時に総需要を削減するための努力に従事しているということである。
 
これは完全に間違った政策である。景気後退に逆らう財政緊縮が自殺であるとクリスティーヌ・ラガルド・・・が主張することは正しい。これ以上の「出血」を続けることができない赤字国が通貨価値下落と保護政策に頼り始める時、崩壊がやって来るであろう。ユーロ圏が成長政策を組み立てるのに失敗すれば、ギリシアや恐らく他のユーロ圏諸国はその貨幣上の、また交易上の独立を再開するであろう。通貨及び貿易戦争が世界中で勃発するであろう。もちろん、これらの戦争は既に始まっている。
 
第二の仮説(調整)はゴードン・ブラウンが「G20成長盟約」と呼ぶものである。本質的に、彼は、2009年の刺激策を生み出し、もう一つ世界大恐慌へ滑り落ちるのを止まらせた国際的な協力の精神の回復を要求している。そのような盟約の要素は、経常収支の不均衡の時代が終了することを目標として、グローバルな通貨制度の改革を含んでいるであろう。金融制度を改革し、危機を引き起こした銀行の過剰な貸出を回避することを目指すこと、そうして世界の需要を押し上げることを目標とするマクロ経済政策を短期的には要求するものである。
 
進歩は第二の項目にある。バーゼルIIIは、銀行にその債務に対していっそう資本を持つ必要性を受け入れさせた。各国はまた、その規制システムを強化し始めた。英国において、ヴィッカーズ報告は、銀行の小売と投資の業務の分割を提案していた。ハイエクは承認したことであろう。・・・根本問題は大銀行の政治権力である。金融は改革されねばならないばかりか、管理されるべきである。1925年にウィンストン・チャーチルは、大蔵大臣として、それをよくした。「私はむしろ金融がそれほど誇りをもてず、産業がより満足するのを見たい。」これまでのところ、政府は、銀行に抵抗するため仕掛け持っていない。それは、金融の再規則が弱体化されるだろうということを示唆する。
 
他の二つの項目においては、いずれにしても言うべきほどの進歩はない。国際通貨制度改革の必要性は主に中国と米国との間の準備金と為替レートに関する大きな取引に基づくが、いまだこれを達成するいかなる真剣な試みのしるしもない。第三の項目に関しては、ただマクロ経済的な調整が世界経済を盛り上げるのではなく、切り詰める方向にある。成長にはいかなる投資もない。
 
しかし、世界経済は、景気後退からの出口を切除することはできず、その出口を育てなければならない。債券市場が多額の債務を持つ政府に赤字削減プログラムを強要する場合、国家は有利な投資機会の不足のために無駄になる国民貯蓄を動員するために、国家的ないし地域的な投資やインフラのための銀行のような別の道具立てを用意しなければならない。
 
分解シナリオ
 
もしどのような成長でも起こっていれば、政府系投資ファンドや年金基金は成長に投資するであろう。そうであるから、彼らは公的債務に投資する。その収益は低いが、少なくとも、比較的安全である。元米国の財務長官代理ロジャー・アルトマンは、歴史的に、米国や英国、ドイツにおける歴史的な低収益の長期の公的債務はただ”無視しうる資本需要”の予測によってのみ説明しうると指摘した。
 
二つのシナリオのうち、分解はよりありそうである。これは、政治的指導力がグローバルな盟約を鍛える仕事になっていないからではなく、現行の国民的経済モデルに要求される調整が任意に試みるにはあまりに大きすぎるからである。米国人より少なく消費し、いっそう多く輸出する必要があろうし、中国とドイツはより多く消費し、もっと多く輸出する必要はないだろう。こうした変更は、三国すべての生活の仕方の根本的な再検討を要求する。
 
米国の場合では、調整は、信用に駆り立てられた経済を壊すことを要求するであろうが、それは、そのほとんどの製造業を低賃金国へ外部委託することで作り出されてきた富と所得の大きな不平等に対処する米国資本主義が持つただ一つの方法なのである。しかしながら、米国がその資本主義バージョンを再考する意志がある小さなサインが存在する。
 
中国の場合は、マイケル・ペッティスが彼のブログ、チャイナ・フィナンシャル・マーケットで指摘するように、同国の低い消費率が「(中国の)成長モデルにとって基本的であり、消費の抑制は、生産性の伸びに比した低い賃金上昇、割安の通貨、なによりも人為的な低金利のような政策の帰結であり、それが猛烈なGDPの成長を生み出した」。
 
ドイツもまた輸出主導型成長に捉えられ、それが永続的な輸出超過の実行により、欧州の隣人を貧困にすれば、結局、自らを貧困にすることになるだろうことを理解しているようにはまったく見えない。
 
中国とドイツが21世紀の、輸入以上に輸出する重商主義者であることを主張するなら、その他の世界は彼らから自らを保護し始めるであろう。
 
ドイツの政策は、ユーロ圏の崩壊に導くであろう。中国のそれは世界貿易と支払システムの崩壊に導くであろう。
 
二つのシナリオ(調整と分解)は、共通に、諸国や国々の集団による国内の成長資源へのいっそうの信頼と外国貿易の減少を想定している。それは、もっとバランスのとれた世界経済について語る場合に我々が主張したいことである。ただ一つの問いかけは、グローバル化の野生の土地からの退却が整然としているだろうか、混乱しているかどうかである。我々は1930年代のブロック経済へと漂流するのか。それとも、我々には、なにごとも市場に安全に任せておけるという幻想から自由に、グローバル化の管理され変更された形態を構築する知恵があるかである。
 
そしてここに、ポイントがある。グローバル化からの混乱した、厳しい退却は1930年代の経済や政治をリバイバルさせ、その傷跡を通り過ぎざるをえない。しかし、核拡散の時代には、さらに恐ろしい結果に結びつく。したがって、私たちは、断然最良であるように、幻想なしで、そしてただ適度な希望をもって働かねばならない。